その瞬間、僕の鼓動は止まっていたんじゃないかと思う。 実際、僕は息をするのを忘れていたのだから。 (彼女だ!) 行き交う人の絶えぬ交差点の向こう側に彼女は、居た。 長い黒髪の彼女。 名も知らない彼女。 けれど、僕はいつのまにか彼女の事を無意識に捜すようになっていた。 はじめて彼女を見かけたのは、僕が通学のために利用している駅のホームだった。 僕が電車を待っているのとは反対側のホームのベンチに彼女は座っていた。 最初は、ただ、綺麗な人だなと思うだけだった。 けれど、彼女がこちらを見て微笑んでくれたとき── 僕の心は、捕らわれた。 あの微笑みは僕に向けられたものではないのかもしれないが、もうそんなことはどうでもいい。 あの日から、僕は彼女に支配されてしまったのだから。 長い信号待ちの末、ようやく交差点を渡る。 幸い、彼女をまだ見失ってはいない。 別に追いついて話しかけるわけでもなく、僕はただ彼女を追いつづけた。 彼女の姿を見ているだけで、僕は幸福だった。 そう、幸福だったのに…… あれは誰だ? 彼女が微笑みを向けるあの男は誰だ? 親しげに話しかけるあの男は誰だ? あの男は彼女の何なのだ? 彼女にとって僕は……ただの他人。 見ず知らずの男。 嫌だ。そんなのは嫌だ。 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダイヤダ……… 彼女に近づく。 気付かない。 彼女をおいこす。 気付かない。 そんなのは当たり前だ。けれどその当たり前すら憎い。彼女に近づく男も、男に微笑む彼女も、全てが憎い。 あの微笑は僕だけのモノだ。 あんな男に向けるためのモノじゃないはずだ。 そうだ、彼女はあの男に騙されているのだ。 救わなくては。彼女を救わなくては。 あの男は邪魔だ。消えろ。消えてしまえ。いや、僕が消してあげるよ…… 辺りに静寂がおとずれる。この世界にはもはや僕と彼女、そしてアノオトコシカイナイ。 チャンス。今がチャンスだ。 染まる。 手が赤く染まる。 男が沈む。 彼女は……微笑んではくれなかった。 ナゼ?ドウシテ? 邪魔者はいない。どこにもいない。僕と彼女の二人だけの世界。僕が望んだ世界。 けれど、彼女は笑ってくれない。 ナニガイケナイ?キミモノゾンダンダロウ? 静寂が消える。誰かが僕を抑えている。彼女から遠ざけようとする。 ボクガナニヲシタンダ? 消える。視界から彼女が消える。僕は何処で何かを間違ったのだろうか。 ボクハナニモヤッテナイ。 ボクハワルクナイ。 ボクハ…… 執心
<終幕>