snow drop

 「……驚いたな。本当に雪が降るなんて」  「だから言ったでしょ?私は雪女だって」  悪戯な笑みを浮かべて美雪が透に告げる。  「ホワイトクリスマス、か」  ぽつりと透が呟く。  今日は12月24日。  恋人たちが幸福に包まれる魔法の時間。  「こういのも悪くないな……」  「ん?何か言った?」  不意に美雪が腕を絡めて透の顔を覗き込む。  「いや、何も」  照れた透は美雪から少しだけ視線をずらし、耳の後ろあたりを掻く。  これは透の照れ隠しの仕草だということを美雪は知っていたので、それ以上何も聞くことなく透と歩いた。  ふと、美雪の足が止まる。  「……今年も咲いてるかな?」  小さな、それでいてはっきりした声で美雪が聞いた。  「心配ないさ」  穏やかな笑顔を浮かべて透が答える。  その笑顔に、笑顔を重ねた二人は力強く頷きあい、再び歩き始める。  街中のイルミネーションは通りを歩く全ての恋人たちを祝福しているかのようであった。  その光を受けた恋人たちもまた、誰もが幸せそうな顔をしている。  透と美雪もそんな恋人たちの中の一組だ。  二人とも別にクリスチャンというわけではない。  それに、去年まで、二人にとってクリスマスとは特別な日ではなかった。  透と美雪は高校1年の時から付き合っていて、もう今年で9年になる。  しかし、透はクリスマスやバレンタインといった行事に余り関心がないタイプでそのことで毎年美雪と喧嘩していた程だ。  そして遂に去年のクリスマスイブの日、事件は起こった。  美雪は走っていた。  雪の中、目的もなくただひたすらと。  何かから逃れるように──  (透の馬鹿!!なんで来ないのよ!!!)  その日、美雪はレストランで透を待っていた。  透には『イブの日にここで待ってるから』という電話だけしておいた。  返事は聞いていない。  いや、怖くて聞けなかったのだ。  ごく当然のように『ノー』という返事が返ってくるだろうから。  それでも、透を待ち続けたのは、心の何処かで“私より大切なものなんてない”と思っていたからだろうか。  しかし、透はやってこなかった。  分かっていたこと。  最初から分かっていたことだったが、美雪は泣いた。  自分の中の何かが崩れていくような気がした。  店員から閉店を知らされても、それが何の合図であるか分からないほど、美雪は混乱していた。  だから、走った。  彼女は悩むと走り出す癖があった。  受験で悩んだ時も、親友と喧嘩した後も、親と不仲になった時も、走って走って走った後は、いくらか気分が落ち着いた。  けれど、今は違う。  走れば走るほど、透の顔が頭に浮かんでしまう。  それを振り払うようにまた走るが、その度に透の笑顔が、横顔が、その眼差しが、楽しかった昔の思い出とともに鮮やかに 蘇ってくる。  (どうして!どうして!どうして!どうして!)  もはや彼女の瞳にはなにも映らない。  雪は容赦なく降り続け、いまでは辺りはすっかり銀世界と化している。  しかし、美雪はそれすらも気づかずに走り続けている。  やがて走り疲れた美雪はその場に倒れこんだ。  「あ……雪……」  そこで、ようやく美雪は降り積もる雪に気づいた。  (せっかくのホワイトクリスマスなんだよ?透)  そう思っても、透はここにいない。  (そういえば……毎年透にそんなこと言ってたっけ)  そう、透は何やかやと言いながらもクリスマスイブは美雪に付き合っていた。  (はは、馬鹿だね私って。一方的に約束して、一人で舞いあがって落ちこんで……)  急に美雪の意識が途切れはじめる。  (ゴメン……透……)  (美雪!)  ふいに、誰かが呼ぶ声が聞こえたような気がした。  (……透?)  「美雪!おい、大丈夫か!」  (…透なの?)  「おい、美雪!頼むから目を開けてくれよ!!」  「透!」  美雪は自分の声の大きさに少し驚いた。  「美雪……よかった」  ほっとした表情の透を見ると、目が少し赤い。  「透……泣いてたの?」  「悪いかよ」  その時、いつもの照れ隠しではなく、まっすぐに目を見詰めて言ってくれたことが美雪にはたまらなく嬉しかった。  「そんなに心配しなくてもいいのに。私、雪女だから」  「そんな軽口叩けるんならもう大丈夫だな」  透がいつもの表情に戻る。  なんだかもったいない気もした美雪だが、これ以上透を心配させたくなかったので普段通りにすることにした。  「立てるか?」  「うん……」  そう答えてみたものの、体の疲労は思ったよりひどく、上半身を持ち上げるだけで精一杯だった。  「やっぱ、無理みたい」  てへ、と美雪は軽く笑った。  「なら、手貸そうか?」  「うん、ありが……あ、ちょっと待って」  「ん、どうした?」  見ると、美雪は自分の右手があった辺りの雪を払っている。  そして、  「ねえ、見て!こんなとこに花が咲いてるよ」  「本当だ。……それにしても、マツユキソウとは珍しいな」  「マツユキソウ?」  「ああ。英語じゃスノードロップっていう。開花期は2月くらいなんだけど、今年の冬は暖かかったんでちょっと早とちり でもしたんだろ」  「ふ〜ん。透って本当に花好きよね」  「まあな。でも、年が明ける前にこの花見れてラッキーだったかもしれないな」  「え?なんで?」  「北欧辺りでは、新年がくる前にこの花を見ると、翌年の幸福が約束されるそうだ」  「わぁ!じゃあ、私たちってものすごくラッキーかもね」  「ああ、それに、この花のいわれも俺たちにぴったりだし」  「いわれって?」  「はるか昔、アダムとイブがエデンの園を追われ雪の中をさ迷っていた時、天使が現れて『もうすぐ春が来るから絶望して はいけない』と告げて雪をこの花に変えたそうだ」  「じゃあ、透がアダムで私がイブ、そしてこの花が天使ってとこ?」  「違う。天使はその花じゃなくてこれさ」  そう言って透はポケットから小さな箱を取り出した。  透はそれを美雪に渡し、  「あけてご覧」  とだけ言った。  美雪がその箱を開けると、その中には美しく輝く指輪が入っていた。  「透、これ……」  「返事はまだでいい。もしも俺に愛想が尽きた時には遠慮なく返してくれても構わない。ただし、それでも俺は美雪のこと を……」  「馬鹿!私には透しかいないの!透の意地悪!」  「……わかってる」  そう言って透は優しく美雪を抱きしめた。  雪は、二人を祝福するかのように温かく降り注いでいる。  「ねえ、この花持って帰ろうか?」  「いや、こいつはこのままにしておこう。多年草だから来年また咲くかも知れない」  「咲くよ、絶対。その時はまた二人でここにこようね?」  「……そうか、そうだな」  「なら、また今年みたいに雪を降らせないとね」  「出来るわけないだろ、そんなこと」  透は妙な所で現実的だ。  「あら、信じてないの?私、雪女なのよ?」  「ところで美雪、まだ立てないか?」  「う〜ん、まだ無理みたい」  「わかった」  そう言った透は、美雪をひょいっと持ち上げた。  いわゆる“お姫様だっこ”である。  そして、なにも言わずにすたすたと歩き出す。  「……透、一つ聞いていい?」  「何だ?レストランに来れなかった理由か?」  「ううん、それはもういいの」  そう、美雪の中でそれはもうどうでもいい事になっていた。  「じゃあ、何だ?」  「ここって、何処?」  すると、透が深く長い溜め息をついた後答えた。  「俺の会社のすぐ裏にある山だ」  「あ、あった、スノードロップ!」  美雪はまるで宝物を見つけた子供のようにはしゃいでいた。  二人にとってこの花は宝物以上の存在だからそれは仕方がないことかもしれない。  「今年も早とちりしちまったみたいだな、お前」  つり鐘状の小さな白い花を下向きにつけたその花に、透は語りかける。  「あ、そういえばこの花の花言葉ってまだ聞いてなかったよね?」  「ん?そうだったか?」  「うん」  興味津々といった顔で美雪が透を見る。  「スノードロップの花言葉は『希望』『慰め』それと……」  「それと?」  「まあ、これはいいか」  「え〜!よくない〜!!」  「はは、じゃあ自分で調べるんだな」  「う〜、意地悪。私が調べもの苦手だって知ってるくせに。それに知ってる人が側にいるのに自分で調べるのって 非効率的だと思わない?」  「はいはい」  透は子供をあやすように美雪をなだめる。  美雪は納得がいかないながらも、決して嫌そうな顔はしない。  こうやって透と過ごす時間がとても心地よいから。  幸福な時間は雪さえも温かく変える。  白いユキノハナは、そんな二人を優しく見守っている。
─finale─