YOU & I

 少年の目の前には、夕陽に染まる街並みが静かにたたずんでいる。  この丘で夕焼けに染まる街を見下ろすことが、最近の彼の日課だ。  少年の名前はユウ。  多少背が低いことと、犬が嫌いなことを除けば、どこにでもいるごく普通の少年だ。  と、ユウは自分でも思っていた。  あの少女に出会うまでは。 ・・・・・・・  それは、まったく偶然の出来事だった。  その日ユウはちょっとした用事で夕暮れの丘を歩いていた。  「……口笛?」  その音は突然ユウの耳に響いてきた。  優しくて、暖かくて、心地よい音楽。  「綺麗な曲だな。でも、何て曲だろ?」  ユウは自分でも気づかないうちに、口笛のする方へと歩いていった。  やがて、ユウの目の前に一人の少女が姿を現した。  風にそよぎ、金色に輝く長い髪。身長は、ユウよりも少し高いくらいだ。  少女は後ろを向いていたので、ユウのことには気づいていないらしく、気持ちよさそうに口笛を吹き続けている。  ユウは、少女から少し離れた場所に座り、瞳を閉じて彼女の口笛に聞き入っていた。  「……きっと、見つかるよ……」  「!!」  突然、少女の口笛が止む。  そして、少女はゆっくりとユウの方を振り返った。  (………綺麗な子だな)  それが、正直な第一印象だった。  緑色の瞳に、愛らしい口元。はっきりとした輪郭に、バランスの取れた身体。  少女の名はアイ。  これが、二人の最初の出会いだった。 ・・・・・・・  「やっぱりここにいるんだ」  夕焼けに染まる街を眺めていたユウの背後から、声が聞こえてきた。  「……どうしても、駄目?」  ユウはぽつりと呟いた。  「残念だけど……」  アイはユウから視線を外す。  「どうして!どうしてだよ!せっかく仲良くなれたのに……」  ユウは振り返り、アイをじっと見つめる。  「ごめんなさい。でも、これだけは信じて。君は、私にとって一番大切な……」 ・・・・・・・  「君、私のことが見えるの?」  それは、想像していた以上に美しい声だった。  急に問いかけられたユウは、しどろもどろになりながらも何とか答えることが出来た。  「う、うん。あ、あのさ、口笛の邪魔しちゃったかな?」  「嘘?!本当に見えるの?信じられない!」  アイはそう言ってユウの元に駆け寄ってきた。  「君、名前は?」  「え、あ、ユウだけど……」  「私はアイ。よろしくね、ユウ」  アイは極上の笑顔と共に、右手をユウに差し出した。  「こちらこそ」  ユウはその笑顔に見とれながらも、しっかりとその手を握り返した。  「ところでユウ。さっき何か言わなかった?」  「え、何?」  「あ、ううん、何でもない」  先ほどの呟きを、ユウは意識すらしていなかった。  (また、駄目なのかしら……)  アイは少し悲しげな表情を浮かべた。  しかし、ユウはそんな彼女の微妙な変化には全く気づいていない。  「あ、もうこんな時間だ!早く帰らないと……」  言葉とは裏腹に、ユウはまだ帰りたくなどなかった。もう少し、この少女と一緒にいたいと思っていた。  そんなユウの思いを知ってか知らずか、  「私もそろそろ帰んなくちゃ」  と言ったアイは、さっさと歩き始めていた。  「ねえ!また会えるよね!」  ユウはアイの後ろ姿に向かってそう叫んだ。  すると彼女は立ち止まりくるっと振り返ると、  「もちろんよ!」  と微笑みを返した。  ユウはそれを聞いて、足取りも軽く家へと帰っていった。  しかし、アイはユウの姿が見えなくなった後も、その場に立っていた。  「……一体何処にあるんだろう、私の帰る場所は」  その言葉は風に乗り、やがて、消えた。 ・・・・・・・  「……痛いよ」  「離すもんか!この温もりが消えるなんて……嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ!!」  ユウは、アイをきつく抱き締めていた。  アイは少し苦しそうにしていたが、決してユウを振りほどこうとはしなかった。  「これは、決まっていたことなの。そう、君に会ったあの日から」  アイの声はかすかに震えている。  そして、その瞳から一粒の雫が流れる時、全ての終わりが始まる。 ・・・・・・・  「あれ?」  ユウがいつものようにその丘を訪れると、そこにアイの姿はなかった。  あの日以来、ユウは毎日のようにこの場所でアイと会っていた。  別に約束をしているわけでもないのに、アイはいつもユウより早くその場所にいて、口笛を吹いていた。  それが、今日はどこにも彼女の姿が見あたらない。  ユウはしかたなく適当な場所を選んで腰を下ろし、夕焼けに赤く染まる街を見つめていた。  ユウは、無意識のうちに口笛を吹いていた。  それはアイが奏でていたあの旋律をなぞっている。  「………やっぱり、君だったのね………」  その声は唐突に聞こえてきた。  アイの声だ。  ユウは辺りを見回すが、彼女の姿はどこにもない。  「私に気づいた時点で、わかってたはずなのに………」  アイはひとりごとのようにつぶやいている。  「でも、最後に一度だけ………」  その言葉と共に、アイは姿を現した。  白いローブ。白いティアラ。そして、白い羽。  全てを純白で包んだ彼女は神々しい光に包まれていた。  「………………」  「驚いたでしょ?私は人間じゃないの。この世界を見守るためにこの地に遣わされた神の御使い、それが私。そして、 観察者である私はこの世界に干渉してはいけなの」  「どういうこと?」  「つまり、普通の人に私の姿は見えないってこと」  「じゃあ、どうして僕には見えるんだ」  「君が普通じゃないからよ」  一瞬の静寂。  「……え?!僕が?」  「そう、君は気づいてないかも知れない。でも、それを気づかせるのがもう一つの私の役目。でも……気づいて欲しく なかった」  「どうして?」  「君が私を、そして私が君を忘れてしまうから」  長い沈黙が二人の間を流れる。  最初にその沈黙を壊したのは、ユウだった。  「……だったら僕が気付かなきゃいいじゃん」  「もう遅いのよ。君には見えるんでしょ?この羽が」  「じゃあ聞くけど、一体僕は何者なんだ!」  「それは……」  アイが答えようとしたその時、ユウの中で何かが弾けた。  「待って!!やっぱり言わなくていい。聞いたら後戻り出来なくなりそうだから」  「そう。あなたなら大丈夫そうね」  アイは今日はじめての笑顔をユウに向けた。  しかし、その笑顔も一瞬で陰を落とした。  「……もう一度」  「え?」  「もう一度会ったら全てが……」  その言葉を残して、彼女は唐突に消えた。 ・・・・・・・  変化は、劇的に訪れた。  アイの涙が地に落ちるのを待たずに、彼女の体は宙に浮いていった。  少しづつ、そして確実に。  ユウの抱き締めた手を、唐突に現れた羽が跳ねのける。  「くっ、行かせるもんか!」  ユウは既に彼の腰くらいまで浮いたアイの手を握り、必死に引き留めようとする。  しかし、アイはそんなユウを見ようとはせず、ただ、上を見上げていた。  「ちくしょう、ちくしょう!」  ユウは必死にアイの手をひくが、彼女の体は上昇する一方で、留まる気配すら見せない。  そしてついに、ユウの手からアイの感触が失われた。  呆然とアイを見つめるユウ。  上を見上げたまま、アイは聞いた。  「ねえ、私たち、出会わなければ良かったのかな?」  「そんなわけ……そんなわけあるはずないだろ!!」  ユウは頭上のアイに向かって思いきり叫んだ。  「ありがとう」  アイはその時、ようやくユウに顔を向けた。  その顔は、穏やかな微笑みに満ちていた。  そして彼女は上昇のスピードを増し、あっという間にユウの視界から消え去った。  「そんなわけ……」  ユウはアイが消えた空を見つめ続けている。いつまでも、いつまでも、飽きることなく。  やがて、ユウの意識が遠くなっていった。  薄れゆく意識の中、誰かがユウに問いかける。  (少年よ何を悲しむことがある。お前は選ばれたのだぞ)  その声はやけに頭に響いた。  (彼女はそのための糧。早く忘れることだ)  重い宣告を告げるかのように声は続ける。  (お主は世界を作り変えることができるのだからな)  その声を最後にユウの意識は深い闇へと落ちていった。  (安らかに眠れ少年、あとは自分で決めるのだ) ・・・・・・・  「さてアイよ」  「はい」  「次はお前の記憶も消さねばならん」  「承知しています」  「お前は本当にそれでいいのか?」  「え?」  「お前は帰る場所を見つけたかったのだろう?」  「はい」  「わしはお前の記憶を消すたびに、お前に悪いことをしていると常々思っていた。そしてお前をその輪廻の鎖から救い出し てくれる者が現れるのをずっと待っておったのだ」  「…………」  「あの少年に、賭けてみる気はないか?」  「え?」  「わしは確かにお前の記憶を消さねばならん。しかし、お前を普通の人間としてあの世界に転生させることも出来るのだ。 もちろん、全くの別人としてだがな。あとは、あの少年の作る世界次第だ。さあ、どうする?」  「私は……」 ・・・・・・・  それでもユウは毎日この丘を訪れた。  理由はない。  ただ、なんとなくここに立ち寄っていただけだ。  ユウは、いつもの様にそこに座り、いつもの様に口笛を吹いた。  頬を、冷たい雫が走る。  泣いているのだ。  それでも、彼は口笛をやめない。まるで誰かにそれを聞かせているかのように。  そしてその音は、彼女に、届いた。  「綺麗な曲ね」  背後から聞こえたその声で、ユウは口笛をやめた。  それは、聞いたことのない声だった。しかし、どこか懐かしい。  「あら?邪魔しちゃったかしら?」  足音が近づいてくる。  ユウは慌てて涙を拭い、後ろを振り返る。そこには、見知らぬ少女が立っていた。  けれど───  「おかえり」  ユウは微笑んで、右手を差し出す。  「ただいま」  少女も微笑みを返し、しっかりとその手を握り返す。  世界を変えていく少年と、世界を見つめ続けてきた少女。  始まりを待たずに終わりを告げ、行き場をなくしたお互いの気持ち。  そんな二人の恋が、ようやく始まる。
<終幕>