「おじさんも何か探してるんだね」
 心地よい風の吹く田舎の道で、そう私に問い掛けてきた少年と出会ったのは、今からもう15年も前のことだ。
 その顔にはどことなく見覚えがあったが、どうしても思い出せなかった。
 「どうしてそう思うんだい?」
 私の問いに少年はにっこりと笑い、
 「ぼくと同じ目をしてるから」
 と答えた。
 「君は何を探してるんだ?」
 と尋ねると、少年はただ黙って空を見上げた。
 つられて空を見上げると、澄みきった空に浮かぶ雲の形が羊に似ていて、例えようのないおかしさがこみあげてきた。
 少年も同じことを考えているだろうかと目を戻すと、もうそこに少年の姿はなかった。



HALF

 その少年と出会った15年前、私は旅をしていた。  私はその日まで、親に言われるままたくさん勉強して、良い中学、良い高校、良い大学、良い会社へと歩みを進めていた。  世間一般でいうエリートコースというやつを私は進んで、いや、進まされてきたのだ。  私もそのことについて何の疑問もなく15年前まで生きていた。  そう、私の勤めていた会社が倒産するあの日まで。  その日、私はいつものように朝起きてすぐ、新聞に目を通そうとした。  しかし、私の目はその新聞の一面にくぎづけにされてしまった。  そこに踊る倒産、不良債権、金融破綻などの文字。  そして一番大きく、私が勤める会社の名前が記されていた。  目の前が一瞬暗くなった。  証券会社の最大手といわれた会社が倒産などと、バブル全盛期のころに入社した私にはとても信じられなかった。  しかし、ワイドショーが映し出すビルは紛れもなく私が勤める会社のビルで、駅の構内で売られている新聞にはみなその 会社の名前が大きく印刷されていた。  それでも私は会社へと行った。  途中、大勢の報道陣に取り囲まれたが、そんなものは気にせずにさっさと会社に入っていった。  たどりついた会社は、静寂に包まれていた。  その時初めて、私はこの会社は潰れたのだと実感した。  それから何日かは、なにもやる気がおきずに家でただごろごろしていた。  小さな頃から勉強ばかりしてきた私にこれといった趣味などあるはずもなく、幸か不幸か、そのために蓄えだけは十分に あった。  そして私は生まれて初めて、これから何をするべきか真剣に考えた。  そして、考えた末に出た結果が、旅に出ることだった。  他人は、こんな私を笑うかもしれない。  だが、私にとってこれは大いなる決断だった。  幾度となく出張を繰り返してきた私だが、“旅行”というものは学生時代の修学旅行以外に経験がなかった。  だから、自分で行き先を決めるだけでもなんだか楽しかったが、敢えて行き先は決めないことにした。  多分、最初に訪れる町が決まった理由は、駅名の語呂がよかったとか、そんな理由だったろう。  そういえば、その町にはホテルがなく、野宿しようとしていたところを親切な町の人の家に泊めてもらったことを覚えて いる。  その時感じたのは、人の暖かさと、自分の中にある埋まらない何かだった。  そしてこの時、私の旅に目的が出来た。  その“何か”を見つけるという目的が。  それから私はいくつもの駅を乗り継いで旅を続けた。  山あいの村では初めてイタチやタヌキを実際に見ることが出来た。  海辺の町で漁に参加させてもらったこともある。  茶摘を手伝わせてもらったり、田植えや稲刈りもやらせてもらった。  全てが新鮮でおもしろく、生きてるとはこういうことをいうのだろうと思えるほど、充実した日々だった。  しかし、足りないものが一つだけあり、それはまだ見つかっていない。  そして、そろそろ旅を終えようと思っていた時、あの少年が私の前に現れたのだ。  「探し物、見つかった?」  二度目に出会った少年はいきなりそう尋ねてきた。  私が首を横に振ると、少年は、  「もしその探し物に形がないのなら、見つけるんじゃなくて気づけばいいんだと思うよ」  と言って、にっこりと微笑んだ。  「気づく……君は気づいたのかい?」  「う〜ん、どうだろ?」  少年はおどけた表情でくるっと後ろを向いた。  「けど、おじさんは大丈夫。もう何も心配はいらないよ」  その言葉を残して、少年はその場を去っていった。  私は、その後姿をいつまでも見送るだけだった。  そしてそれが、最後に見た少年の姿だった。  やがて旅を終えた私は、家に戻ることにした。  この旅で得たものは多かったが、肝心の目的を果たすことが出来なかったのが唯一の心残りだ。  私は旅に出るということを、誰にも告げていない。  もちろん、今日帰ってくるということも。  だから、一年以上空けていた部屋の前に人影が見えた時、私は正直驚いた。  さらに驚いたことに、それは私がよく知った女性だった。  「菊池くん?」  そこにいたのは潰れたあの会社で私の部下だった菊池美香だった。  「後藤さん!」  菊池くんはいきなり私に抱きついてきた。  「お、おい、どうしたんだね菊地くん」  「ひどいです……一年もどこに行ってたんですか……」  そう言う菊池くんの声はかすれていた。  「すまなかったな。それで、どうしてここに?まあ、立ち話もなんだからとにかく中に入りなさい。一年間ほったらか しだったから多少埃っぽいかもしれないがね」  そう言って私は菊池くんに微笑んでみせた。  すると、菊池くんはなぜか呆然としてドアを開けても部屋に入ろうとしない。  「ん?どうしたんだい?」  「あ、いえ、後藤さんの笑顔なんて初めて見たもので……」  「ははっ、そりゃひどいな。そんなに変だったかい?」  「いえ、そうじゃなくて、あんまり素敵だったから……」  頬を真っ赤に染めて、菊池くんは俯いてしまった。  「お、お邪魔します」  その照れを隠すように、菊池くんは足早に部屋へと入りこんでしまった。  そんな彼女の態度を微笑ましく思いながら、心にある種の満足感が広がりつつあることを、私は徐々に自覚し始めていた。  私の部屋は予想通りかなりの量の埃に覆われていた。  全ての窓を開け、掃除機をかけようとすると、既に菊池くんがリビングを掃除していた。  「菊池くん、私がやるから君は座ってていいよ。君はお客様なんだからね」  「いえ、やりたいんです。やらせてください」  菊池くんは頑として譲ろうとしない。  それに、菊池くんはなんだか掃除を楽しんでいるみたいだった。  どんなことでも楽しむということは、人生を十分満喫するために必要なことだということを、私はこの旅の間肌で感じていた。  やがて、菊池くんが掃除を終え、私達はリビングの机に向き合うように座った。  「いや、ありがとう。本当はコーヒーの一つも出して労いたいんだが、あいにく旅に出る前に全部処分したんで切らしてるん だよ」  「あ、いえ、お構いなく」  菊池くんは辺りをきょろきょろと見回して、どうにも落ち着かないようすだった。  「それにしても、どうしたんだい?急に私の所に来るなんて」  私は必要最低限の人間関係しか持っていなかったため、プライベートで部屋に他人をあげるということは、数えるほどしか ない。  もちろん、菊池くんが私の部屋に来るのも初めてだ。  旅に出る前の私なら、彼女を部屋にあげることなどなかっただろう。  「あの………夢を見たんです」  彼女は必死に呼吸を整え、やっとのことでそう切り出した。  何年も一緒に仕事をしてきたのに、私は彼女の顔をしっかりと見つめたことがなかった。  私よりも一回り年下の彼女の顔は、まだあどけなさを残してはいたが、とても魅力的だった。  「夢?」  「はい。あの、笑わないって約束してくれます?」  「ああ」  「えと、その夢でわたしは空を飛んでたんです。最初はただ気持ち良くぷかぷか浮かんでるだけだったんですけど、急にが くっと落ちてしまったんです。そう、まるで突然片方の羽根をもがれたように。わたしは必死でまた飛ぼうとしました。けど、 どんなに頑張っても飛べなかったんです。仕方なく地上を歩いていると、目の前に男の子が立っていました。わたしが『どう したの』と問い掛けると、その男の子は黙ってただ私の頭上を指差しました。わたしがその指の先を追うように視線を移して も、そこにはただ、青い空が広がっているだけでした。一体何なのだろうと再び視線を戻すと、もうそこには男の子の姿はな かったのです。そして、わたしが歩こうとすると、急に体が浮き上がり、再び空を舞うことが出来るようになっていました。 そしてわたしは、空を駆け上がった瞬間に、目を覚ましたんです」  菊池くんはそこまで一気に話すと、軽く息をついた。  「ロマンチックで素敵な夢じゃないか」  「もう、からかわないでください」  「いや、からかってなんかいないよ。でも、その夢と私とがどうつながるんだい?」  「……その男の子っていうのが、後藤さんに似ていたんです」  「私に?」  そのことを聞いたとき、突然私は旅先で出会ったあの少年の姿を思い浮かべた。  そうか。  あの少年は私に似ていたのだ。  どうりで、どこかで見たような顔だったわけだ。  「あ、やっぱり笑った」  どうやら、自然と顔がにやけたようだ。  見ると菊池くんは少しふくれている。  「違うんだよ。私も、君と似たようなことを体験したものでね」  「後藤さんも?」  「ああ……」  私は、菊池くんに旅先での出来事を話して聞かせた。  もともと、私は話すのが苦手なほうなのだが、菊池くんが熱心に聞いてくれるために、こちらの話にもついつい熱が入って しまった。  そして私は、はっきりと満たされる自分を感じた。  私は気づいたのだ。  私に足りなかったもの。  それは、心からの笑顔を向けられる相手。  その相手が今、目の前にいる。  この感情が恋と呼べるものかどうかは、私にはわからない。  しかし、私に彼女が必要なことだけは、はっきりとわかる。  あとは、彼女が私を必要としてくれるかどうかだ。  「はぁ、後藤さんって色んな体験をなされてきたんですね」  「いや、そんなことはないよ。ただ、少しだけ生きるのが楽しくなっただけさ」  「で、その探していたものっていうのは、結局見つかったんですか?」  「いや、その旅では見つからなかったよ。でも……」  「でも?」  「……菊池くん、一つ聞いてもいいかい?」  「え?なんですか?」  「君に、今、彼氏はいるかい?」  「な、な、な、な、なんですか、突然?!」  「頼む。真面目に答えてくれ」  私は立ちあがり、まっすぐ彼女の瞳を見つめた。  私の真剣な様子に彼女も何かを感じたのだろう、私の目を見つめ返すと、  「お付き合いしてる人は、いません」  とはっきりと答えた。  「美香、と呼んでいいかい?」  「え、それはどういう……」  言いかけた彼女の唇に、私は素早く唇を重ねた。  「ん……」  最初は驚いて、何が何だかわからないといった彼女だったが、次第に私にその身を委ねてきてくれた。  私は、ついにあの旅で探しつづけたものを手に入れたのだ。  そして私は、またこの場所へとやって来た。  15年前、あの少年と出会った町へと。  それは、心に空いた穴を埋めるための旅であった。  私は、また半身を失ってしまったのだ。  あの後すぐに、私と美香は籍を入れた。  ささやかながら、式も挙げることができた。  美香と過ごした日々はとても充実していた。  ただ、残念なことに、初めて私たちが授かった子供は、私たちの前にその姿を現すことなく、美香の胎内でその生命の 幕を閉じた。  もともと体が弱かった美香も、この事があってから入退院を繰り返すようになった。  そして半月前、ついに美香の命の炎も消え去ってしまった。  しかし、その最期を迎える表情は、とても安らかなものだった。  私は、何を求めてこの町へと戻ってきたのか。  あの時出会った少年も、もう今では立派な青年になっていることだろう。  それでも私は、どうしてもあの時の少年に会いたかった。  そして、彼に、探し物が見つかったこと、しかし、それをまた失ってしまったことを話したかった。  自然と、私の足はあの場所に向かっている。  15年前あの少年を見かけた、心地よい風の吹くあの道へと。  一歩一歩、美香と過ごした日々のことを想いながらその道を歩く。  楽しかったこと、嬉しかったこと、苦しかったこと、悲しかったこと。  その一つ一つが、彼女が生きていたという証となる。  たとえその存在がこの世から消え去っても、私の中から消え去ることはない。  その意味で、足りない何かを探していた15年前とは、喪失感の質が違っている。  やがて、私の目の前に少年の影が映る。  少年は、15年前と変わらぬ姿でその場所にいた。  私と美香の子供が、もしもこの世に生を受けていたら、ちょうど彼くらいになっていただろう。  「探し物は見つかったかい?」  15年前とは逆に、私のほうから声をかける。  振り返った少年の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。  その時、私はやっと気づいた。  「そうか……君が探していたのは……」  私は少年にゆっくりと近づき、そっとその体を抱きしめてみた。  感触がない。  それでも私は、自分の体をきつく抱きしめるようにして、少年を離さなかった。  「……君の肉体はここにはないんだよ。もう、探さなくていい。光、安らかにお休み」  「父さん……」  光。  それは、私と美香が考えていた私たちの子供の名前だった。  女の子だった場合は“香”、そして、男の子の場合は“光”にしようと。  どうりで、私に似ていたはずだ。  15年前、光は確かに私と出会っている。  そして美香もまた、夢の中で光と出会っていたのだ。  その時、光は、まだこの世に存在することは許されていないはずだった。  しかし、私と美香が結ばれたのは、光の存在があってこそであった。  この世に生まれ出ることを拒否された光は、時間という壁を突破して、私たちを引き合わせたのだろうか。  「今まで、本当にすまなかった。そして、有難う。お前は、身体なんか持たなくても最高の息子だ」  声が振るえているのが自分でもわかる。  「僕は、もう探さなくていいの?」  「ああ、お前はもう私と同じで気づいたのだろう?これから何をすべきかを」  「……うん」  「じゃあ、母さんによろしく言っといてくれ」  「父さんも、元気でね」  「ああ……」  光の最後の姿は、涙に滲んではっきりとは見えなかった。  そして、私は本当に一人になった。  だが、後悔はまったくしていない。  美香と出会い、光と出会って、私の人生は大変充実したものとなった。  願わくば、私は最期を迎えるその瞬間まで人生を楽しみたいと思う。  “生きる”ということの意味を教えてくれたあの二人のためにも。
<終幕>