K

 『この手紙を君が読んでいる時、   僕は、もう君とは会えなくなっているだろう。   夢を見て君の元を離れた僕だけど、   結局その夢は叶わずに終わってしまったようだ。   まずはその事を謝ろうと思う』  都会の雑踏。  人々の夢、希望、挫折、焦燥。  その全てを飲み込んで混ぜ合わせるような大通り。  いつもと変わらない場所で、いつもと変わらないそんな街を描き続ける若い絵描きが一人。  彼はぼんやりと空を見上げている。  自分が描きたかったものはこれだったのだろうか?  自分が描きたかったものはこんなものだったのだろうか?  自問自答を何度も繰り返し、スケッチブックを何枚も破り捨てながら。  ある日、絵描きは一匹の黒猫と出会う。  この街、いや、この国で黒猫は“不吉の象徴”とされ、“悪魔の使者”とさえ呼ばれて忌み嫌われていた。  そんな黒猫が、週末の大通りを堂々と歩いている。  ある者は、黒猫から目をそらしている。  ある者は、敵意のこもった目で黒猫を睨んでいる。  飛礫が、黒猫に向かって投げられる。  それでも黒猫は、憶することなく歩いていく。  そんな黒猫の姿を、絵描きは追い続けた。  お前はどこに行くのか?  お前に希望はあるのか?  黒猫はそんな絵描きの視線に気づくことなく、路地へと消える。  それは偶然か必然か。  夜の大通り、絵描きと黒猫は再び出会う。  その姿を見て絵描きは悟った。  “ああ、なんて同じなのだろう”と。  『けれど、僕は自分を不幸だとは思わない。   僕は、友達を見つけたから。   かけがえのない親友を。   君は驚くかもしれないけど、その親友は人間じゃないんだ。   もっとも、この手紙を君が目にしているということは、彼が君に会ってるということだけど。   驚いたかい?   でも、君のことだから、優しく頭を撫でたりしてるんじゃないかな』  「君は卑怯だ」  逃げる黒猫を捕まえて抱き上げると、絵描きは黒猫にそう言った。  黒猫は絵描きの腕の中でもがいている。  しかし絵描きは黒猫を離そうとせず、  「そうやって、孤独へと逃げようとする。本当に僕と同じだ」  と言うと、黒猫の頭を愛しく優しく撫でた。  それでも黒猫は絵描きから逃れようとする。  何度も何度も。  絵描きは黒猫を手放すたびに追っていった。  何度も何度も。  「さあ、おいで。僕と友達になろう」  それから、しばらくの時間が流れた。  黒猫は絵描きと共に暮らし、絵描きは黒猫の絵ばかり描く。  絵描きは黒猫に語りかける。  故郷の話、恋人の話、昔の思い出話。  それは、他愛もなく穏やかで、幸せな時間。  しかし、永遠とも思われたその瞬間の連続も、唐突に崩れ去る。  日に日に衰弱する絵描きと、それを見守ることしか出来ない黒猫。  絵描きは、自分の最期が近いことを感じると、筆をとって恋人宛に手紙を書きはじめた。  そして、傍らで自分を見つめる黒猫に、  「お前に、頼みたいことがあるんだ」  と言って、手紙を黒猫の前に置いた。  「これを、僕の恋人に届けておくれ」  『そいつの名前は“ホーリーナイト”   黒き幸って意味さ。   どうだい?いい名前だろ?』  黒猫は確かに受け取った。  絵描きの手紙を。  彼の思いを。  今、自分に出来ること。  自分が、彼に出会ったことの意味。  全ては、この為だったのだろう。  既に冷たくなった親友の手紙を口に銜えて、黒猫は走り出す。  恋人の家は山の向こう。  聖夜の近い冬に歩くには、無謀とも思える距離。  しかし、歩みを止めるわけにはいかない。  街で出会う人々が浴びせる罵声と暴力。  小さな子供でさえも小石を投げる。  しかし、そんなものに負けるわけにはいかない。  親友が名付けた、この名を背負う限り。  手紙の続きは、読むことが出来なかった。  聖夜の鐘が鳴る。  止まることない涙を拭おうとは思わない。  思い出すのは、夢見がちなあの人の顔。  もう二度と聞けないあの人の声。  目の前には、そんなあの人を救ってくれた彼の親友。  鳴り響く鐘の音と同じ名を持つ、聖なる夜の使者。  既に冷たくなった身体を抱え、私は庭へと向かう。  一番見晴らしの良い場所に、彼を埋めてやろう。  あの人が好きだった場所。私が好きだと言ってくれた場所に。  “聖なる騎士よ、安らかに眠れ”
─fin─